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司法試験考



司法試験のあり方や,法曹人口問題,すなわち,法曹(裁判官,検察官,弁護士)人口をどのくらいにするべきかの問題について,マスコミでも取り上げられることが多くなりました(なお,「法曹人口問題」と言っても裁判官や検察官の採用人数は大きくは変わっていないので,「法曹人口問題」とは実質的には「弁護士人口問題」と言い換えることが出来ると言えます)。

これらの問題については,私もいろいろ考えるところは多く,とても1回のブログに書くことは出来ないので,折に触れて書けることを書いていこうと思いますが,今日は,司法試験について考えるところを少し書きたいと思います。

司法試験は,昔(といっても10年もたっていませんが)と今とでは,仕組みが違っています。

昔の司法試験(「旧司法試験」と呼ばれます。)は,大学の教養課程さえ修了していれば受験でき,仮に大学の教養課程を修了していなくても,「第一次試験」と呼ばれる試験に合格すれば受験することが出来ました。そして,ある年に不合格となっても,その後何回でも受験することが出来ました。

一方,現在の司法試験は,原則として法科大学院の過程を修了しなければ司法試験を受験することは出来ず,受験することが出来る回数も,法科大学院修了後5年以内に3回だけと制限されています。

旧司法試験に対しては,「一発勝負であって,その一発勝負に勝つために,知識を詰め込んだ上で,受験テクニックに長けた者が有利である。だから,知識を詰め込んだり(知識偏重),受験テクニックを磨くこと(テクニック偏重)に余念が無く,合格者は真の法的素養を磨くような勉強をしていない。」といった批判がありました。前記のような制度変更があったのも,旧試験に対するこのような批判を前提に,「法科大学院の修了を受験の要件とすることで,合格者は必ず法科大学院で真の法的素養を磨くような勉強していることになる。」という制度にすることにその意図があったと言えます。旧司法試験が,合格までの過程を問わない「一発勝負」である一方,現行の司法試験は「プロセス重視の試験である。」と言われることもあります。

法科大学院が「真の法的素養を磨くような勉強」の機会を提供しているのかどうかについては,私は法科大学院の授業や教育内容を直接知っている訳ではないので,きちんと述べることは出来ないので,今日は触れません。また,旧司法試験合格者の方が優秀か,現行司法試験合格者の方が優秀かという論争(?)を時折見かけますが,これは無意味な論争だと思っており,端的に言えば,いずれの試験合格者も優秀な人は優秀だし,残念な人は残念な人であるとしか言いようがないと思います。

しかし,旧司法試験に対する上記のような批判は誤りだと思っています。

まず,知識偏重と言われる点については,法律を武器に仕事をしていく以上,一定の知識は不可欠です。確かに,知らないことは調べればよいのですが,一定の知識がなければ,問題の所在もわからず,そもそも「調べる」前提を欠くことになり,調べることすら出来ません。

また,テクニック偏重と言われる点については,確かに,司法試験の第一関門の短答式試験(マークシート式試験)にテクニックが必要な面があったことは事実ですが,そのようなテクニックに長けるだけで合格できるような甘い試験ではなかったと思います。また,実際の試験と同じ形式での模擬試験(「答案練習」と呼ばれていました)を繰り返すことを「テクニックを磨くこと」に目的があると捉える向きもあるようですが,一定の形の文書を作成する能力を身につけるのに,同じ形式の文書を何回も作成してみることは有効な訓練であって,これを「テクニックを磨くこと」と批判する人は,物事を表層的にしか見ていないように思います。

結局,一定の知識を前提に,自分の頭で法律を操作して一定の結論を出すという「法的素養」がなければ合格できない試験であったと思い,その意味で旧司法試験に対する上記のような批判は誤りだと思うのです。

ただ,法曹に必要な能力は,上記のような「法的素養」に限らず,たとえば事務処理能力であるとか,コミュニケーション能力といったものも必要不可欠ですが,旧司法試験でこれらの能力を判定することは出来なかったと思います。このように,法曹として求められる素養の一部しか判定していないのではないかという批判であれば,それは確かにその通りであっただろうと思います。ただ,これらの能力を「試験」で測ることは可能なのだろうかという疑問はあり,そのような試験で測れない能力を涵養するというのであれば「プロセス重視」で何らかの訓練を受験資格として科すという事は考えられたかも知れません。

現在,司法試験制度がいろいろ混乱していますが,その混乱の元は,旧司法試験に対する誤った批判を前提に,現在の制度が作られたことに起因しているのではないかと思っています。

再逮捕 その2



刑事訴訟法の議論をする際には,実務上圧倒的に多い「同じ人が,先に逮捕された事件とは,別の事件の疑いをかけられて逮捕される」場面を意味するものとしては「再逮捕」という言葉を使わない理由について考えてみたいと思います。

逮捕や勾留(こうりゅう:簡単にいうと逮捕に引き続いて一定期間行われる身柄拘束)については,「事件」(犯罪事実)ごとに,その要件や効果を考えていくものとされています。したがって,「同じ人が,先に逮捕された事件とは,別の事件の疑いをかけられて逮捕される」場合,「先に逮捕された事件」とは「別の事件」については,改めて逮捕の要件を満たすのであれば,逮捕は基本的に許されると考えられるため,「同じ人が,先に逮捕された事件とは,別の事件の疑いをかけられて逮捕される」場面について,あまり議論すべき点はないために,この場面を指し示す言葉は,刑事訴訟法の議論では必ずしも必要ではないと言えます。

一方,「同じ人を,先に逮捕したのと同じ事件で再び逮捕する」ことは,これを無条件に許してしまえば,逮捕について時間制限(警察が逮捕状により逮捕したときは,原則として48時間以内に検察官に送致する手続をとらなければならず,これをしない場合は直ちに釈放しなければならない)が設けられていることをすり抜けるための手口として使われかねないことから,これを許してよいのかどうか,許されるとしてどのような場合なのかについてきちんと議論する必要があります。

そこで,刑事訴訟法の議論においては,「同じ人を,先に逮捕したのと同じ事件で再び逮捕する」ことを「再逮捕」と呼んだ上で,これを原則として許すべきではないという考え方を「再逮捕禁止の原則」と呼んで,あれこれ議論する訳です。

ところで,逮捕や勾留については,「事件」(犯罪事実)ごとに,その要件や効果を考えていく以上,同じ人について,逮捕や勾留が二重にされる場合があります。

いささかタイミングを失してしまったのですが,6月下旬に,都内の小学校の校門前の路上で、下校中の児童らが刃物を持った者に切りつけられた事件がありましたが,この事件を起こしたと疑われている者は,まず,「刃物を持っていた」ということで,その事件の日の内に,銃刀法違反で現行犯逮捕されましたが,翌日,殺人未遂で別途「再逮捕」(これはマスコミ等の用語法)されました。

この事件の場合,銃刀法違反の件で勾留までされたのかは,報道を見る限りはっきりしないのですが,おそらくは,①銃刀法違反で逮捕,②銃刀法違反で勾留,③殺人未遂で逮捕,④殺人未遂で勾留というように手続が進んだと思われ,そうだとすると,②と④の「勾留」が同じ人に二重にされていることになります。

既に銃刀法違反で勾留していて,身柄が確保できているのだから,改めて殺人未遂で勾留するのは無駄ではないかと思われるかもしれませんが,逮捕や勾留については,「事件」(犯罪事実)ごとに,その要件や効果を考えていくという考え方によれば,殺人未遂でも勾留しておかないと,銃刀法違反で勾留の必要がなくなった場合には,釈放しなければならないとか,殺人未遂の取り調べに不都合を生じる(弁護士の立場からは,逮捕や勾留の効果を取り調べに及ぼすことは批判的に捉えられますが,この点についてはまた機会があれば書きたいと思います)といったことがあり,同じ人間について,事件が異なる「二つ」の勾留をすることに意味はあるといえるのです。

再逮捕 その1



報道等で用いられる言葉が,法律で用いられている言葉と違っていたり,法的な議論をする際に用いるのと違う意味で使用されている例というのはたまにあります。

このような例で,私(に限らず,多くの法律専門家がそうだと思いますが)が一番最初に思いつく例は,刑事裁判に関する報道で用いられる「○○被告」という言葉です。

「被告」というのは,民事裁判で訴えられた人をさす言葉です。刑事裁判で起訴された人のことは,刑事訴訟法その他の法律で「被告人(ひこくにん)」と定められていて,「被告」とは定められていないのです。

「人」を付けるか,付けないかの違いなのだから,どうせなら正確に「被告人」と表現すればいいのにと思うのですが,そのようになる気配は感じられません。

そして,法律専門家で,刑事裁判で起訴された人のことを「被告」と表現する人は,ほとんどいないと言ってよいと思います。(ただ,「国民に分かりやすい刑事裁判」をめざして,報道での用語法に合わせて,敢えて「被告」と表現する例はあるかも知れません。)

ところで,「再逮捕」という言葉もよく報道において使われていると思いますが,報道で「再逮捕」という言葉が使用される場合は,ほとんどの場合,「同じ人が,先に逮捕された事件とは,別の事件の疑いをかけられて逮捕される場合」のことを指しています。

「再逮捕」という言葉は,刑事訴訟法には出てこないのですが,刑事訴訟法の議論をする場合の「再逮捕」とは,上述のような意味ではなく,「同じ人を,先に逮捕したのと同じ事件で再び逮捕する」ことを意味するとされています。

つまり,報道等で用いられている「再逮捕」の「再」とは,「同じ人を再び逮捕する」という意味合いでの「再」であるのに対して,刑事訴訟法の議論をするときの「再逮捕」の「再」とは,「同じ人を再び」だけでなく,「同じ事件で再び」という意味合いも含めた「再」であるといえます。

したがって,「再逮捕」についてという言葉は,報道で用いられているのと,法的議論で用いられる場合とで,意味が違って使用されている例だと言えます。

しかし,多くの法律実務家は,刑事裁判で起訴された人のことを「被告」と呼ばないのと違って,「再逮捕」という言葉については,むしろ報道等で用いられている意味,すなわち,「同じ人が,先に逮捕された事件とは,別の事件の疑いをかけられて逮捕される場合」という意味合いで使っています。

これは,法律実務においては,実際圧倒的に「同じ人が,先に逮捕された事件とは,別の事件の疑いをかけられて逮捕される」場面が多く,このような場合を指す言葉として「再逮捕」という言葉が便利だからです。

圧倒的に「同じ人が,先に逮捕された事件とは,別の事件の疑いをかけられて逮捕される」場面が多いのであれば,刑事訴訟法の議論をする際も,「再逮捕」という言葉はその場面を指すものとして使えば良さそうなものなのに,刑事訴訟法の議論をするときには「再逮捕」をその場面を指すものとして使わないのは何故でしょうか?

このことについては,また別の機会に触れたいと思います。

NHK受信料判決



職業柄,報道等で「判決」と見聞きすると,興味が湧き,また弁護士同士でもその報道を話題にすることが多いのですが,その報道を見ただけでは,判決の内容や理論構成がわからないこともまた多いものです。

6月27日に横浜地裁相模原支部で言い渡されたという,NHKの受信料に関する判決も,報道を見ただけでは,分からない部分があります。

この報道によれば,「契約書を交わしていなくても裁判所の判決で受信契約が成立する」という初の判断を示し,男性に契約締結と過去約4年分の受信料10万9640円の支払いを命じた。」とされています。

ところで,NHKの受信料は,放送法の64条に根拠があるようであり,その条文は以下のようになっています(「協会」とはNHKのことです)。

    第64条

  1. 協会の放送を受信することのできる受信設備を設置した者は、協会とその放送の受信についての契約をしなければならない。ただし、放送の受信を目的としない受信設備又はラジオ放送(音声その他の音響を送る放送であって、テレビジョン放送及び多重放送に該当しないものをいう。第百二十六条第一項において同じ。)若しくは多重放送に限り受信することのできる受信設備のみを設置した者については、この限りでない。
  2. 協会は、あらかじめ、総務大臣の認可を受けた基準によるのでなければ、前項本文の規定により契約を締結した者から徴収する受信料を免除してはならない。

(以下省略)

この第1項により,受信設備を設置したら,その設置した人に「NHKと受信契約をする義務」が生じることになり,その義務に応じて,NHKと受信契約を締結したら,その人はNHKに受信料を支払う義務が生じ,その受信料支払い義務は基本的に免除することは出来ない(第2項),というように読むことが可能であるように解釈されます。

そうなると,受信料の支払い義務が生じるのは,あくまで「受信契約を締結した後」ということになるはずで,「契約する義務はあるが,その義務に応じていない」時点では,受信契約は未締結(未成立)なので,受信料の支払い義務も生じていないというのが基本的な考え方でしょう。

そして,今回の判決は,「受信契約を締結(成立)した」といえる場面を,契約書のとり交わしに限定せず,「裁判所の判決がある場合」としたという点に目新しさがあるということになろうと思います。

最初に「報道を見ただけでは,分からない部分がある」と書きましたが,この判決に関する報道でいえば,①どのような理論構成で「裁判所の判決があれば,受信契約が成立した」と結論づけたのかの点,②どのような理論構成で「過去約4年分の受信料10万9640円」の支払いを命じたのかの点がよく分かりません。

①については,今回の訴訟で,NHKの側が「受信契約を承諾(申込み?)せよ」というような意思表示を求めて,これが認められたのかもしれません。

②については,先ほども書いたように,受信料の支払い義務が生じるのは,あくまでも受信契約の締結(成立)の後と考えるのが自然なので,「過去約4年間の受信料」の支払いを命じるには,4年前に既に受信契約が成立したと構成するか(この点は①の構成の仕方にもよると思います),もしくは「受信料の支払い義務が生じるのは,あくまでも受信契約の締結(成立)の後と考えるのが自然」という前提自体で異なる考え方をしているのかもしれません。

①②について,別に考えられるのは,既に4年前に「裁判所の判決」が存在し,それに基づく契約の成立を今回確認し(①の点),したがって,4年前に成立した受信契約に基づいて,4年分の受信料の支払いを命じた(②の点)ということです。

これらの点は,判決自体にあたるのが一番なので,どこかで入手できたらまたそこでわかったことなどを書きたいと思います。

実際のところは判決にあたってみないとわからないのですが,「判決」という報道に接したときに弁護士がどのようにその報道を見て,考えているのかの一端のご紹介という趣旨で理解して頂ければ幸いです。

国選弁護と私選弁護



最近,ネットの広告で法律事務所のものが非常に目に付きます。

かつては,法律事務所の広告といえば,借金問題や離婚などの家庭問題のものが目立っていましたが,最近1年くらいは刑事弁護に関する広告が目立つようになった気がしています。

その中で,「国選弁護人に任せていては不安だが,私選弁護を私どもに任せてもらえれば安心」といった内容の広告も散見されます。

そこで,国選弁護と私選弁護の差異について私が感じたり考えたりしていることを書きたいと思います。

国選弁護人というのは,文字通り,国(裁判所)が選任した弁護人のことで,貧困その他の理由により私選弁護人がつけられない被疑者(犯罪をしたと疑われている人で刑事裁判になる前の人)や被告人(犯罪をしたと疑われて刑事裁判を起こされた<起訴された>人)に選任されます。

この場合,「この弁護士を国選弁護人にしてください。」という被疑者・被告人の選択権は法律上はないこと,また,一旦選任されれば,被疑者・被告人がその弁護士をクビにすることも出来ませんし(ただ,私選弁護人を選任すれば国選弁護人は解任されます),弁護士の側から「こんな人の弁護なんて,やってられない。」と言って辞めることも基本的には出来ません。

一方で,私選弁護人の場合は,好きな弁護士を選べますし,被疑者・被告人の方からクビにするのも弁護士が辞めるのも基本的には自由だと言えます。

そして,費用ですが,国選弁護と私選弁護を比較すれば,弁護士が頂くフィーは後者の方が相当高いといえますし,国選弁護の場合は,そもそも被疑者・被告人が自分で負担しなくてよい場合が多々あります。

このように,被疑者・被告人の側から見れば,場合によっては弁護士費用がタダであり,弁護士の側から見れば,受け取れるフィーが安いということで,国選弁護は何だか「安かろう,悪かろう」のようにみえて,そのために「国選弁護人に任せていては不安だが,私選弁護を私どもに任せてもらえれば安心」といった広告が幅を利かせるのかもしれません。

実際,被疑者・被告人の中には、自分の弁護人が国選弁護人であるということに引け目を感じている方もいるようで,時々「国選なのに,勝手なことを言ってすみません。」みたいなことを言われることもあります。

しかし,私としては,国選弁護と私選弁護の違いは,「自由に選べるか否か」の点に尽きるのではないかと思っています。

私選弁護の方がフィーが高いのは,「自由に選べる」ことへの対価であって,「国選弁護以上に熱心に仕事をする」ことではないというのが私の考え方です。

似た例(といってよいか分かりませんが)で言えば,美容院に行ったときに,美容師さんを指名すると,指名料が必要な場合があると思いますが,その指名料に似ていると思います。

指名ではないお客さんだからといって,美容師さんが手を抜くことが(多分)ないのと同じく,私は国選弁護でも私選弁護でも,弁護活動として最善を尽くすという考えです。

それなら,何も高い金を払って私選弁護人に頼む必要などないと思われるかも知れません。

確かにそのとおりとも言えますが,先ほどの美容師さんの例で,「どうも相性があわないなあ。」というような場合もあるのと同様に,弁護士とも相性の合う,合わないがあるといえます。

また,美容師さんがいくら一生懸命やってくれても「どうも腕が悪いなあ・・・」と感じることがあるのと同様に,弁護士にも腕や経験の差があるのはいかんとも否定しがたい事実ですから,そのような場合には,私選弁護人に委ねることの意味があると言ってよいかも知れません。

その意味で,「国選弁護人に任せていては不安だが,私選弁護を私どもに任せてもらえれば安心」というのは,「国選弁護人」一般について言うならミスリードではあるが,国選弁護人ではなく,私選弁護人を選任した方がよい場合があるという意味では間違いとまでは言えない,というのが私の考えです。

ただ,私選弁護人を選任するとしても,広告で刑事弁護のスペシャリストを名乗って「私選弁護を私どもに任せてもらえれば安心」と言っている弁護士に任せて本当に安心なのかどうか,国選弁護ではなく私選弁護にするだけの価値があるのかどうかは分かりませんので,あしからず。

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