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Monthly Archives: 7月 2013

当事務所への道案内



初めての当事務所に相談してくださる方などに,「事務所はどこにありますか?」と聞かれて,電話で道案内をすることがあります。

その場合,まずは,「西後町(にしごちょう)のセントラルスクエアの近くにあります。」と大まかな位置についてお話しします。実際に,当事務所は,セントラルスクエアからは歩いて1~2分の場所にあり,セントラルスクエアに車を駐車していただいた場合には,駐車券を差し上げています(なお,駐車場は事務所の隣にも用意しております)。

次いで,当事務所がどの道路に面しているかという点の説明に入ります。当事務所は,「寿町通り」という,非常に縁起のよい名前の道路に面していますが,その名前を知っている方は少ない(実際に,私も,この場所に事務所を構えてから初めてその名を知りました)ので,「寿町通りに面しています。」と説明することは少なく,実際にする説明としては「長野県庁と中央通りを結ぶ道沿いにあります。」という説明をします。
しかし,その説明だけでは,電話口の向こうで「???」っていう感じでおられるのが分かるので,更なる補足説明が必要になります。
私が一般的にしている説明は,「長野県庁の前に宝くじ売り場があるのは分かりますでしょうか?その宝くじ売り場が入り口になっている道路です。」という説明です。この説明をすると,皆さん,何となく合点がいったという感じになってくるので,更に,分かっていただくために「信濃毎日新聞社とか,すや亀味噌さんがある通りです。」と説明すると,「ああ,分かりました。」と言っていただけることがほとんどです。

以上が,私がする当事務所への道案内の一般的な仕方なのですが,このような説明をしたときに,比較的多く返ってくるリアクションが二つあります。
一つは「ああ,昔,富士銀行があった通りですね。」というリアクションです。確かに,富士銀行と第一勧業銀行と日本興業銀行とが合併して,みずほ銀行になる前は,富士銀行の長野支店が「寿町通り」の中央通り側の入り口にあったと思います。ただ,今はその跡地は別の施設になっていることや,私自身,長野市出身ではあっても,郊外(?)に住んでいたために,西後町付近を歩くことなど滅多になかったために,その場所に富士銀行があったということをリアルな記憶として持っていないことから,なかなか「昔,富士銀行があった通り沿いに当事務所はあります。」という説明が出来ない訳です。
もう一つよくあるリアクションは,「ああ,東京堂さんの近くですね。」というものです。このリアクションは,私と同年代の男性の方に多い反応で,「プラモデル作りが大好きだった少年時代に東京堂に行くのが楽しみだった」という方がされる反応です。先ほども書いたように,少年時代にはこの辺りを通ることが少なかったことと,私は図画工作の類が大の苦手で,周りの友人達がこぞって,「宇宙戦艦ヤマト」とか「ガンダム」などのプラモデル作りに勤しんでいても,全くこれに関知しないという少年時代を送ったためもあって,東京堂さんには無縁な少年時代を過ごしていたことから,「東京堂さんの近くに当事務所はあります。」という説明は当初は思い浮かばなかったのです。しかし,東京堂さんは,現在も営業しており,私も時々立ち止まってその鉄道模型等のディスプレーに見入ることもあるような魅力的なお店ですので,最近は,私と同年代の男性とおぼしき方には「東京堂さんのはす向かいに事務所があります。」という説明をすることもあります。

このような感じで,当事務所の道案内の際は,皆さんが知って居るであろうメジャーな存在を目印に,いわば他人のふんどしで相撲をとるような道案内をさせて頂いている次第ですが,これが逆の立場(○○は青木法律事務所のすぐそばにあります。)になることは今のところないでしょう(笑)。

司法試験考



司法試験のあり方や,法曹人口問題,すなわち,法曹(裁判官,検察官,弁護士)人口をどのくらいにするべきかの問題について,マスコミでも取り上げられることが多くなりました(なお,「法曹人口問題」と言っても裁判官や検察官の採用人数は大きくは変わっていないので,「法曹人口問題」とは実質的には「弁護士人口問題」と言い換えることが出来ると言えます)。

これらの問題については,私もいろいろ考えるところは多く,とても1回のブログに書くことは出来ないので,折に触れて書けることを書いていこうと思いますが,今日は,司法試験について考えるところを少し書きたいと思います。

司法試験は,昔(といっても10年もたっていませんが)と今とでは,仕組みが違っています。

昔の司法試験(「旧司法試験」と呼ばれます。)は,大学の教養課程さえ修了していれば受験でき,仮に大学の教養課程を修了していなくても,「第一次試験」と呼ばれる試験に合格すれば受験することが出来ました。そして,ある年に不合格となっても,その後何回でも受験することが出来ました。

一方,現在の司法試験は,原則として法科大学院の過程を修了しなければ司法試験を受験することは出来ず,受験することが出来る回数も,法科大学院修了後5年以内に3回だけと制限されています。

旧司法試験に対しては,「一発勝負であって,その一発勝負に勝つために,知識を詰め込んだ上で,受験テクニックに長けた者が有利である。だから,知識を詰め込んだり(知識偏重),受験テクニックを磨くこと(テクニック偏重)に余念が無く,合格者は真の法的素養を磨くような勉強をしていない。」といった批判がありました。前記のような制度変更があったのも,旧試験に対するこのような批判を前提に,「法科大学院の修了を受験の要件とすることで,合格者は必ず法科大学院で真の法的素養を磨くような勉強していることになる。」という制度にすることにその意図があったと言えます。旧司法試験が,合格までの過程を問わない「一発勝負」である一方,現行の司法試験は「プロセス重視の試験である。」と言われることもあります。

法科大学院が「真の法的素養を磨くような勉強」の機会を提供しているのかどうかについては,私は法科大学院の授業や教育内容を直接知っている訳ではないので,きちんと述べることは出来ないので,今日は触れません。また,旧司法試験合格者の方が優秀か,現行司法試験合格者の方が優秀かという論争(?)を時折見かけますが,これは無意味な論争だと思っており,端的に言えば,いずれの試験合格者も優秀な人は優秀だし,残念な人は残念な人であるとしか言いようがないと思います。

しかし,旧司法試験に対する上記のような批判は誤りだと思っています。

まず,知識偏重と言われる点については,法律を武器に仕事をしていく以上,一定の知識は不可欠です。確かに,知らないことは調べればよいのですが,一定の知識がなければ,問題の所在もわからず,そもそも「調べる」前提を欠くことになり,調べることすら出来ません。

また,テクニック偏重と言われる点については,確かに,司法試験の第一関門の短答式試験(マークシート式試験)にテクニックが必要な面があったことは事実ですが,そのようなテクニックに長けるだけで合格できるような甘い試験ではなかったと思います。また,実際の試験と同じ形式での模擬試験(「答案練習」と呼ばれていました)を繰り返すことを「テクニックを磨くこと」に目的があると捉える向きもあるようですが,一定の形の文書を作成する能力を身につけるのに,同じ形式の文書を何回も作成してみることは有効な訓練であって,これを「テクニックを磨くこと」と批判する人は,物事を表層的にしか見ていないように思います。

結局,一定の知識を前提に,自分の頭で法律を操作して一定の結論を出すという「法的素養」がなければ合格できない試験であったと思い,その意味で旧司法試験に対する上記のような批判は誤りだと思うのです。

ただ,法曹に必要な能力は,上記のような「法的素養」に限らず,たとえば事務処理能力であるとか,コミュニケーション能力といったものも必要不可欠ですが,旧司法試験でこれらの能力を判定することは出来なかったと思います。このように,法曹として求められる素養の一部しか判定していないのではないかという批判であれば,それは確かにその通りであっただろうと思います。ただ,これらの能力を「試験」で測ることは可能なのだろうかという疑問はあり,そのような試験で測れない能力を涵養するというのであれば「プロセス重視」で何らかの訓練を受験資格として科すという事は考えられたかも知れません。

現在,司法試験制度がいろいろ混乱していますが,その混乱の元は,旧司法試験に対する誤った批判を前提に,現在の制度が作られたことに起因しているのではないかと思っています。

再逮捕 その2



刑事訴訟法の議論をする際には,実務上圧倒的に多い「同じ人が,先に逮捕された事件とは,別の事件の疑いをかけられて逮捕される」場面を意味するものとしては「再逮捕」という言葉を使わない理由について考えてみたいと思います。

逮捕や勾留(こうりゅう:簡単にいうと逮捕に引き続いて一定期間行われる身柄拘束)については,「事件」(犯罪事実)ごとに,その要件や効果を考えていくものとされています。したがって,「同じ人が,先に逮捕された事件とは,別の事件の疑いをかけられて逮捕される」場合,「先に逮捕された事件」とは「別の事件」については,改めて逮捕の要件を満たすのであれば,逮捕は基本的に許されると考えられるため,「同じ人が,先に逮捕された事件とは,別の事件の疑いをかけられて逮捕される」場面について,あまり議論すべき点はないために,この場面を指し示す言葉は,刑事訴訟法の議論では必ずしも必要ではないと言えます。

一方,「同じ人を,先に逮捕したのと同じ事件で再び逮捕する」ことは,これを無条件に許してしまえば,逮捕について時間制限(警察が逮捕状により逮捕したときは,原則として48時間以内に検察官に送致する手続をとらなければならず,これをしない場合は直ちに釈放しなければならない)が設けられていることをすり抜けるための手口として使われかねないことから,これを許してよいのかどうか,許されるとしてどのような場合なのかについてきちんと議論する必要があります。

そこで,刑事訴訟法の議論においては,「同じ人を,先に逮捕したのと同じ事件で再び逮捕する」ことを「再逮捕」と呼んだ上で,これを原則として許すべきではないという考え方を「再逮捕禁止の原則」と呼んで,あれこれ議論する訳です。

ところで,逮捕や勾留については,「事件」(犯罪事実)ごとに,その要件や効果を考えていく以上,同じ人について,逮捕や勾留が二重にされる場合があります。

いささかタイミングを失してしまったのですが,6月下旬に,都内の小学校の校門前の路上で、下校中の児童らが刃物を持った者に切りつけられた事件がありましたが,この事件を起こしたと疑われている者は,まず,「刃物を持っていた」ということで,その事件の日の内に,銃刀法違反で現行犯逮捕されましたが,翌日,殺人未遂で別途「再逮捕」(これはマスコミ等の用語法)されました。

この事件の場合,銃刀法違反の件で勾留までされたのかは,報道を見る限りはっきりしないのですが,おそらくは,①銃刀法違反で逮捕,②銃刀法違反で勾留,③殺人未遂で逮捕,④殺人未遂で勾留というように手続が進んだと思われ,そうだとすると,②と④の「勾留」が同じ人に二重にされていることになります。

既に銃刀法違反で勾留していて,身柄が確保できているのだから,改めて殺人未遂で勾留するのは無駄ではないかと思われるかもしれませんが,逮捕や勾留については,「事件」(犯罪事実)ごとに,その要件や効果を考えていくという考え方によれば,殺人未遂でも勾留しておかないと,銃刀法違反で勾留の必要がなくなった場合には,釈放しなければならないとか,殺人未遂の取り調べに不都合を生じる(弁護士の立場からは,逮捕や勾留の効果を取り調べに及ぼすことは批判的に捉えられますが,この点についてはまた機会があれば書きたいと思います)といったことがあり,同じ人間について,事件が異なる「二つ」の勾留をすることに意味はあるといえるのです。

再逮捕 その1



報道等で用いられる言葉が,法律で用いられている言葉と違っていたり,法的な議論をする際に用いるのと違う意味で使用されている例というのはたまにあります。

このような例で,私(に限らず,多くの法律専門家がそうだと思いますが)が一番最初に思いつく例は,刑事裁判に関する報道で用いられる「○○被告」という言葉です。

「被告」というのは,民事裁判で訴えられた人をさす言葉です。刑事裁判で起訴された人のことは,刑事訴訟法その他の法律で「被告人(ひこくにん)」と定められていて,「被告」とは定められていないのです。

「人」を付けるか,付けないかの違いなのだから,どうせなら正確に「被告人」と表現すればいいのにと思うのですが,そのようになる気配は感じられません。

そして,法律専門家で,刑事裁判で起訴された人のことを「被告」と表現する人は,ほとんどいないと言ってよいと思います。(ただ,「国民に分かりやすい刑事裁判」をめざして,報道での用語法に合わせて,敢えて「被告」と表現する例はあるかも知れません。)

ところで,「再逮捕」という言葉もよく報道において使われていると思いますが,報道で「再逮捕」という言葉が使用される場合は,ほとんどの場合,「同じ人が,先に逮捕された事件とは,別の事件の疑いをかけられて逮捕される場合」のことを指しています。

「再逮捕」という言葉は,刑事訴訟法には出てこないのですが,刑事訴訟法の議論をする場合の「再逮捕」とは,上述のような意味ではなく,「同じ人を,先に逮捕したのと同じ事件で再び逮捕する」ことを意味するとされています。

つまり,報道等で用いられている「再逮捕」の「再」とは,「同じ人を再び逮捕する」という意味合いでの「再」であるのに対して,刑事訴訟法の議論をするときの「再逮捕」の「再」とは,「同じ人を再び」だけでなく,「同じ事件で再び」という意味合いも含めた「再」であるといえます。

したがって,「再逮捕」についてという言葉は,報道で用いられているのと,法的議論で用いられる場合とで,意味が違って使用されている例だと言えます。

しかし,多くの法律実務家は,刑事裁判で起訴された人のことを「被告」と呼ばないのと違って,「再逮捕」という言葉については,むしろ報道等で用いられている意味,すなわち,「同じ人が,先に逮捕された事件とは,別の事件の疑いをかけられて逮捕される場合」という意味合いで使っています。

これは,法律実務においては,実際圧倒的に「同じ人が,先に逮捕された事件とは,別の事件の疑いをかけられて逮捕される」場面が多く,このような場合を指す言葉として「再逮捕」という言葉が便利だからです。

圧倒的に「同じ人が,先に逮捕された事件とは,別の事件の疑いをかけられて逮捕される」場面が多いのであれば,刑事訴訟法の議論をする際も,「再逮捕」という言葉はその場面を指すものとして使えば良さそうなものなのに,刑事訴訟法の議論をするときには「再逮捕」をその場面を指すものとして使わないのは何故でしょうか?

このことについては,また別の機会に触れたいと思います。

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